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恋愛小説 天ノ川 向コウ岸 5

5     リミッター  R15

 暗黙の了解で、二人はひっそりと会った。自宅でさえ人目が有る時は常に距離を置き。街でデートをしようものならばれる事は当たり前で、むしろ噂になりかねず。



 何しろ彼女は最上のお嬢様で、彼は土手際の王子だった。だから必然的に竹林で落ち合う事が多かった。
 七緒は昔からこの竹林が大好きだった。ここを通る風はいつでも青く、清々しい空気を含み、彼女の中を浄化してくれる、そんな気がするからだ。
 その芳しさを吸い込み、彼を待つ。きっとこの林の香りは大人になっても忘れられなんだろう、そんな事を考えながら。
 かさり、かさり。ゆっくりと近づく足音。
「待たせた?」
後ろから抱きしめられ、わざとらしくうなずく。
「とても。」
と。
 手をつなぎ、お互いの掌の柔らかい所を指先で擦り合う。
「今日は何してた?」
他愛の無い会話。
「今度美味しいコーヒー入れてあげるよ。良い豆が手に入ったんだ。」
「この前来た臨時の講師っていうのが、使えなくってね。どうしてあんなのが准教授取れたのか不思議ちゃん。」
 彼は優しくて、面白かった。そして彼女は時に我がままで、拗ねながらも甘えてみせて。
 家政婦さんの勤務時間は6時まで。その前後で七緒が帰ってきて、父親が帰ってくるまでのほんの少しの時間だけが二人のものだった。触れ合いたい、そう思って二人きりのソファで彼女の手を引きかけて、彼は何度も後悔していた。いつ父親が帰ってくるか分からない。その分単位の逢瀬を、女の子の七緒が嬉しいと思えるはずも無く。漫然としながら、それでいてほんのりと開いた唇を貪った。
 そうこうしている間に梅雨になる。その日はカリキュラムの都合で早帰りだった七緒は
『4時には帰れるから』
彼にそうメールを送っていた。場所はいつもの所。
 ゆっくりと近づく足音が不意に早まり
「待たせた?」
先にきていた七緒を彼女の傘ごと自分の傘の中に入れ、
「こっちにおいでよ。」
強い力が引き寄せた。色とりどりのチューリップのプリントがその手を離れ宙に舞う。それに構う事無く七緒は彼に抱きつき、85%の湿度と27度の気温に暖められた彼の汗の匂いを吸い込んでいた。
「したい。」
それは本能が言わせた言葉だった。初めての体験は暗に漏れずそんなに
“良い思い”
をした訳ではなかったのだけれど。彼を肌で感じたい、そんな気持ちがリミッターを越えていた。
「ここで?」
彼は困った様に彼女を見下ろした。それはあまりにも無理が有り。七緒は口を閉じ、再び彼の胸に顔を埋めた。
「忘れて。」
と。本当は時間とか条件とか場所だとか、そんな当たり前の規約を飛び越え、二人だけの世界に行ってしまいたかった。それでもそれを言う事は禁忌、そんな気がした。しばらく抱き合い、何も言えず。
「もういかないと。」
先に離れたのは七緒の方だった。
「怪しまれちゃう。」
彼はその背中を独り見送った。

 玄関には先に帰っているはずの七緒の靴は無く、台所から流れる様に漂ってきた焚き物の匂いが彼の頭にある考えを起こさせた。
「ただいま、加納さん。これ今晩の煮物?」
「あらお帰りなさい。」
彼女はつまみ食いをする千久馬をまるで自分の子供を見るかの様に眺めていた。
「美味いねぇ、相変わらず。」
「当たり前でしょう。」
タオルで手を拭きながら、帰って来た彼のためにお茶を入れようとする。
「あ、良いから、サンキュー。」
千久馬は大きく手を振った。
「それより、これからもっと降りが激しくなるってさっきラジオかなにかで聞いたけど。加納さん、大丈夫?」
それは彼女のリュウマチの事だった。雨と一緒に痛みが走る。その辛さを何回か耳にしていた千久馬だったから。
「そうなのよ。」
彼女は表情を曇らせ、腰を擦った。だから彼はここぞとばかり畳み込む。
「あとしなきゃいけないのは夕ご飯、と、何?」
多分魚を焼いて雨戸を閉める、そんな所だと踏んで聞いてみた。
「簡単な事だったら俺やるよ。それより早目に上がって体休めたら?帰りにたたられても嫌でしょ?濡れて風邪でも引かれたらみんなが困るし。少し位早めに帰っても誰も文句言わないと思うけど。」
言いながら七緒の父から預かっていた車の鍵を取り出して
「良かったら駅まで送ってくよ。だってその為に車まかされてんだしね。」
そう言って免許証を手に持った。

 コンビニを出た瞬間、七緒は失敗した事に気がついた。もともと当ても無く、すぐに家に帰る気になんかならないと言う理由だけでやって来たのだった。気持ちが落ち着くまで店内をぶらぶらしたまではいいものの、買うものが無い。飲み物は重くて嫌だし、食べ物もいらない。仕方なくしばらく買っていなかったファッション雑誌を手に取った。
 その表紙が軒先の雨を受け、小さな反り返しを見せた。
 何をするにも億劫で、濡れるにまかせて歩いた。しとしとと降る雨に体も冷え、ぬれねずみの姿を加納さんに怒られるかもしない、そんな事を考えていた。まだ早い時間なのに周りは薄暗がり。自宅の玄関先の常夜灯がぼんやりと霞んで見えていた。
 その玄関には5時前だと言うのに鍵がかかっていて。
「加納さん、いないの?」
首を傾げながら自分の鍵で中へと入る。何故か人の気配も無く、あまり考えても仕方が無いと部屋に戻り、着替えを手にして浴室へ向かった。その途中、玄関が無造作に開いた。
「加納さん、今日先、あがったから。」
彼はそのままずんずんと彼女に近づき、濡れた身体のまま七緒を抱きしめていた。
「おいで。」
その意味を彼女が間違うはずも無く。
 冷たかったはずの躯が芯から熱を放つ。
 濡れた服は床の間の板張りに放り捨て、薄い布団を投げ出すかの様に横たえ上に転がった。
「七緒、七緒。キレイだよ。」
無我夢中でキスを仕掛ける彼の腕時計は4時48分。
“2時間”
そのリミットがホテルの休憩みたいだなぁ、そんな事を思いながら彼女は彼の首にしがみついた。
「好き。」
と。
 荒い息を整えようとする彼の腕の中、初めての時よりも余裕の無い千久馬の激しさに飲み込まれ、七緒は意識の半分を夢の中に置いていた。
「ゴメン、キツかった?」
大きな手が何度も彼女の髪を撫でる。
「そんな事、無いよ。」
それはどう見ても嘘だったけど。
「幸せだから。」
とぼんやりとしている目を伏せた。彼女の汗ばんだ素肌を少しごわごわしたタオルケットが包んでいた。
                  つづく

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by hirose_na | 2008-07-05 23:02 | 恋愛小説