恋愛小説 天ノ川 向コウ岸 10 R15

10      黒い金魚

 その夜帰りは意外なほど遅くなり、二人が寝静まった家にたどり着いた時には12時を回っていた。



 何しろ帰りのタクシーが捕まらず、千久馬は擦れて痛い下駄を途中で買ったサンダルに履き替えて、1時間以上かけて歩いてきたのだ。
「疲れたよ〜。」
彼は馴染みのソファの上で大の字になって大きな伸びをし、それから足を持ち上げた。
「水ぶくれになってるし。」
「はいはい。」
そんな彼に七緒はバンドエイドを差し出した。
「七緒は平気なの?」
「そりゃ、慣れ、でしょう。」
彼女は平然と笑うと、冷たい麦茶を用意した。
 その一口一口が、こくん、こくんとのどの奥に吸い込まれるのを見て、彼はいたたまれなくなり思わず立ち上がり彼女を抱きしめていた。
「おいでよ。」
と。肌の上をちりちりと這って行くその感覚を彼は押さえきる事が出来なかった。
「今晩ぐらい一緒に居たいよ。」
彼女の耳の内に響く彼の心臓の音は早く、そのリズムが七緒の心を揺さぶった。
「良いよ。」
お互い父親が同じ屋根の下に眠っている事を知っている。それでも二人は猫の様に足を忍ばせ廊下を渡った。

 まだ5時にもならない早朝だと言うのに、二人とも目覚め、お互いが同じ布団で寝ている事を不思議に感じながらどこか安心する気持ちが有った。自然に腕が絡み合い、口付けをかわす。
 彼の探る様な目つきと柔らかい手つきに、彼女は自分が愛されている事を感じてはいた。彼にとって自分は
“尊重される”
対象なのだと。彼が自分を愛おしみ大切にしたいと思っているその想いを受けながら、今の彼女はためらう事無く彼を受け入れた。
 眠りに引き込まれそうになりながら、七緒はもうそろそろこの部屋を出なければいけないと思っていた。その気配を感じた千久馬が囁いた。
「贅沢させてよ。」
言葉の意味が分からずきょとんとしている彼女を千久馬が笑う。彼は立ち上がり昨夜の浴衣を羽織ると、縁側の窓を大きく開け放ったのだ。そこに有るのは家の庭。確かにここは離れで父親がやってくる事はまず無い。それでも彼の取った行動は大胆で、七緒の度肝を抜いた事は確かだった。
 朝日が部屋に差し込み、千久馬の姿を光に隠す。それを眩しいとばかり彼女は目を細めてみていた。
 隣りに座った千久馬が彼女を引き寄せる。
「キスだけだから。」
何も羽織るものの無い彼女は布団を握りしめ瞳を閉じた。
 そのささやかなひとときは、彼にとって本当に贅沢な瞬間のはずだった。
 ぱりん。二人ともその音を遠くで聞いた気がした。それはとても甲高く、薄氷が割れる、そんな音だった。
「何?今の音。」
彼の胸から体を起こした彼女は辺りを見渡した。多分、軒の方。最初は二人とも気づく事が出来なかった。あるべき所にあるものが無い、むしろその事が彼に何が割れたかを教えてくれた。慌てて彼女を押し退け立ち上がり、縁側の向こうを覗く。
「やっべぇ。」
そこにはキレイに割れて散らばったガラスのかけら。不思議な事に黒い金魚だけはそのままの形を留め、まるで水を求めてもがくかの様に、その緩やかなカーブで波を打っていた。
「ご免な。」
彼は小さな声で謝っていた。拾い上げた風鈴のヒモは老け、藍色の白んだ所でぶっちりとちぎれていた。
「吊るすとき、もう少し気を配っておけば良かった。」
彼は彼女の風鈴の鮮やかな組紐の色を思い出した。彼女はそれを挿げ替えてこういう事が無い様にしてきていた、その事を映像で思い出し後悔した。
「大丈夫よ。」
七緒はそんな彼の肩に手を置いた。
「千久馬が悪いんじゃないでしょう?」
その言葉は彼を癒してはくれなかった。
「もう限界だったの。そういう時期だったのよ。」
彼が抱える不安があった。それに七緒は気づきはしない。それは何よりも、自分の中の不安の方が強かったから。
 もういい加減話し合わないといけない次期に来ているのは分かっていた。本当は自然消滅する予定だったのに。ここに来て初めて、彼と離れていてもつながっていたいと思う様になり、彼さえもそんな気持ちでいるんじゃないかと幸せな錯覚に陥りつつあった。だから話し合おう、そんな出ばなをくじかれた気分だった。
 彼女の目に映る黒い金魚は、ガラスの中の狭い世界から必死になって逃げ出そうとした、そんな風に見えてならないのだった。

                       つづく

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金魚が出てきました。
長い間ガラスの中に閉じ込められていた金魚です。
黒い金魚が地面の上を泳ごうとする姿を、
二人はそれぞれ違う想いでみていると思ってもらえると ♪ です。
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by hirose_na | 2008-07-10 22:39 | 恋愛小説